蓄積されてきた経験や知恵を発揮
オキュパイ(占拠)に発展
3月31日18時に閉鎖が予定されていた、大阪西成区にある「あいりん総合センター」で労働者たちが座り込みを行い、翌4月1日に府の管理権限が切れたことで、非暴力のうちに占拠に成功した。この場所が24時間オープンするのは、1994年の反失業闘争で、大勢で布団を敷いて野営して闘って以来のことだという。
同センターは築49年となる。2015年の橋下市政時代、駅前活性化計画の一環として建替えが決められ、耐震基準を満たしていないという理由で、南海線の高架下への一部機能の仮移転が完了していた。
なぜ労働者たちはセンター閉鎖に反対するのだろうか。寄せ場運動に詳しい原口剛・神戸大学准教授は言う。
「この場所は、手配師との『相対方式』が公認された例外的な労働市場で、日雇労働者たちにとっては仕事を探す場所であり、また日雇労働被保険者手帳(白手帳)などの権利を獲得する拠点でもありました。72年には、悪質手配師の親玉である暴力団組長を労働者たちの目の前で土下座させたことで闘争の勢いが増し、行政・資本から労働者に主導権が移りました。以来、この場所は越冬闘争の拠点として、あるいは将棋や雨宿り、読書空間など、多くの機能を担ってきました。移転してしまうと、『体を休める場所がなくなるのではないか』という危機感を労働者たちは感じています。加えて、新センターのガラス張りの構造は、市民にとっては居心地がいいでしょうが、労働者にとっては疎外された気持ちになるでしょう。監視カメラが多数設置されているのも問題です。職を探しに行くたびに、なぜ監視の目にさらされなければならないのでしょうか」。
座り込む労働者
3月31日17時45分、センターのアナウンスが閉館を告げた。集った数百人もの労働者や支援者は、シュプレヒコールを挙げ、落ちていた一斗缶やゴミ箱をドラムのようにうち叩き、アナウンスの声をかき消した。
南東側のシャッターを降ろそうとする大阪府職員に、労働者たちが抗議の声を挙げる。結局、職員は、座り込む労働者を強制排除することができなかった。
その後は、「寝る場所やトイレを使うのに、これからどうしろというのか!」と、労働者がいくら話しかけても、府職員は円陣を組んで沈黙を守り、何を言われても石のように黙ったまま、ただ立ち尽くしていた。
午後8時、西側のシャッターは開放されたまま。この頃になると、もしかしたら閉鎖を阻止できるのではないかという希望が、皆に生まれていた。
何人かの職員が「退去願います」と頭を下げて現場から立ち去った。去り際に、年配の職員が、記者に「釜ヶ崎以外の者が首を突っ込んでくるな」と、悪態をついた。しかし、この場にいるほとんどは地元の労働者であった。
23時、残りの職員が動きだした。残りのシャッターを降ろすと言うのだ。労働者たちは猛然と抗議。職員は「今のセンターは耐震性に問題がある」と、これまでどおりの文句を繰り返すばかりだった。
アンコが勝ったんじゃ
労働者たちは、(1)今開いているシャッターは閉めないで、(2)1階のトイレと水道などを開放する、(3)話し合いを継続する、この3点を要求。
職員は「休憩に入る」と言って、立ち去った。それきり、深夜0時を廻ると、周囲を取り囲んでいたガードマンたちも帰宅してしまった。
深夜1時、帰ったはずの職員が再び現場を訪れた。「シャッターは閉められない。今日は撤退する」「いつでも閉鎖したいと考えている」などと言って去っていった。逮捕された人はいなかった。
占拠は確かなものとなり、小さな歓声が上がった。持ち込まれた石油ストーブの横に座った一人の労働者は、「アンコ(日雇労働者)が勝ったんじゃ」と、嬉しそうにつぶやいた。
翌朝5時、仕事を求める労働者や手配師たちが訪れ、シャッターがまだ開いていることに驚きの声をあげた。
「閉鎖を阻止し、占拠の実現するには、釜ヶ崎の越冬闘争や野宿のテント村などでこれまで蓄積されてきた経験や知恵、技術が大きな力を発揮しました。いちはやく食糧供給ルートを確保したり、寝具供給ルートを確保したりと、それぞれが即興で行動していたのです」と、原口准教授は語った。
本紙の問い合わせに対し、大阪府労政課は、「既存のセンターは生活困窮者の居場所として活用されているが、本来そういう場所ではなく、新しい施設には代替機能を与えるつもりはない。センターで野宿をしている人もいるが、近隣住民から苦情が出ている」と回答した。同課は2023年予定の建て替えに向け、「1日も早く閉鎖し、反対している人を説得したい」と語っている。